(イ)はだか詣りとは
検見川町の伝統行事の一つで、清らかな心身で新年を迎えるために元朝参りをするという神事です。起源は江戸時代の元禄の頃(西暦1700年前後)にさかのぼると言われています。さらしの腹巻き以外は上半身は裸になり、除夜の鐘が鳴る頃に検見川神社を出発します。道中のかけ声はお互いに「ホラヤット」を繰り返し、時々「ええなんぼ」「はいなはんぼー」と呼び掛けます。また、神社参道の階段を登り降りする時は「さんげ、さんげ、ろっこんしょうじょう」という全国的に使われる言葉を唱えます。検見川神社出発後は2丁目の三峯神社、3丁目の尾鷲神社、5丁目の三峯神社と回ります。

(ロ)はだか詣り
検見川神社にははだか詣りと呼ばれる神事があります。除夜の鐘が鳴り終わると町内の若衆がわらじばきで、晒しの腹巻き、手拭いの鉢巻をして、手に手に提灯を持ち威勢よく元朝参りをする勇壮なものです。この起源は元禄年間(1688〜1704)と伝承されていますが、全盛時代は太平洋戦争の頃です。はだかで元朝参りをする勇ましい信仰のあらわれは各町内ごとに群を作り互いに競い合い、その数は200名を超えるものでした。この頃は検見川だけでなく稲毛千葉の神社へも詣でています。道中は独特な掛け声をかけ「イイナンマー、ハイダー、ハンボー」「ホラヤーホラヤー」と声を揃えていい、社前の参道では「サンゲー、サンゲー、ロッコンショウジョウ」と唱えながら唱えながら社殿に参拝をしました。現在では生活様式の変化などに伴い20〜30名程度となっています。はだか詣りの掛け声は八坂神社の全身である嵯峨神社の創建者が御所に仕えた末裔だったために、御所言葉が使用されたのではないでしょうか。「イイナンマー、ハイダー、ハンボー」とは神聖(イイ)なる神の蔵人(ナンマー)として、感動(ハイ)の意、肝魂(キモダマ)をいれて(ダー)、饗残らず仕うまつらせむ(キョウハンハンボー)。「ホラヤーホラヤー」は天子(天皇)の警邏(見まわり)の呼びかけに用いる。「サンゲーサンゲー、ロッコンショウジョウ」は過去の罪悪を悟って、神仏の前で悔いて改心を誓うこと。人間の迷いの元となる6つの根源、すなわち眼、耳、舌、身、意、息が通う間は楽欲にひかれ六根から生じる妄執、色、声、香、味、触、法を断って清浄の身となることです。 検見川郷土史より

(ハ)裸参り
裸参りは元旦の朝、除夜の鐘が鳴ると行われた。厳寒の中、検見川の神社や稲毛浅間神社・千葉神社などへ、鉢巻を締め半股引のみを着用した大人・子どもがグループで走ってお参りする、漁村にふさわしい元旦の朝の行事であった。以下、上3丁目・仲下宿(現3丁目)にお住まいのF氏の話を中心に記したい。F氏は昭和5年の生まれで、昭和12年〜20年にかけて8回程裸参りに参加している。
若衆宿(わかしやど)
当時は各町会に2〜3軒の若衆宿(以下、宿と記す)が設けられ、宿に裸参りのグループが結成されていた。宿の多くは駄菓子屋であったという。各グループの人数は7〜8人から12〜13人位であった。F氏グループは12〜13人位でグループ名は無かった。
準備
裸参りを行う1か月ぐらい前から尾鷲神社の境内に焚き火用の枯れ枝を集めておいた。昔神社は森に囲まれていたので枯れ枝が沢山あったという。準備は各グループごとに行った。
服装
戦前の格好は半股引といい、漁師の人が好く履いたパンツを着用した。頭には鉢巻を締め、足は草履を履いた。当時、検見川の雑貨屋で草履を売っていたが、売り切れることもあってその場合は隣町まで買いに行った。また、腹巻きを巻いたり、晒しの何の文字も記されていない襷を十文字にか掛けたこともあった。襷を掛けるだけでもすごく暖かったという。
弓張り提灯
グループに弓張り提灯が7〜8個あり、リーダーや古株の者が持つことが多かった。時には、寒いので暖を取るために小さい子に「これ持て」と持たせることもあった。蝋燭が燈してあるので持つと暖かった。提灯には「上三丁目」と記してあった。
おひねり
お参りする神社の数だけ半紙でおひねりを作った。おひねりは戦前で1円を包みV字型にして鉢巻に刺した。お参りする神社数のおひねりを鉢巻に刺すこともあれば、2本ぐらいを鉢巻に刺し、残りは腹巻きに入れって行くこともあった。
出発
除夜の鐘が鳴る1時間ぐらい前から宿の前で薪を燃やしておく。除夜の鐘が鳴るとスタートしたが、初めて参加した子どもなどは興味津々で「早く行きたい」「早く行きたい」と言うので「まだ早い」と諫めたという。
掛け声
スタートするときに、「イイナンマー、ハイダーハム、イイナンマー、ハンダーハイボー、ホラヤー、ホラヤー」(注1)と掛け声を掛けた。途中でもリーダーが「イイナンマー」と言うと、「ハンダハイボー、ホラヤー、ホラヤー」と唱えた。また、神社の階段を登る時、下がる時には、「サンゲーサンゲーロッコンショウジョウ」(注2)と掛け声をかけた。掛け声には道中の寒さに耐える気合いみたいな意味合いもあったという。
経路
F氏グループは、宿を出ると大通り(房総街道)に出てまず検見川神社に向かった。階段を上がり拝殿に二礼二拍一礼し、おひねりを賽銭箱に1個投げ入れた。そこでは篝火が焚いてあり暖を取ることができた。また、1丁目の氏子世話人が酒と甘酒を振る舞っていた事もあり、甘酒を飲んで一息入れたこともあった。神社を出ると来た道を引き返して鍛冶屋の坂を上り、3丁目の尾鷲神社に行った。神社では二礼二拍一礼し、おひねりを賽銭箱に1個投げ入れた。ここでも篝火が焚いてあり暖を取った。なお、甘酒などの振舞いは無かった。尾鷲神社を出ると鍛冶屋の坂を下って大通りに出て5丁目の三峯神社へ向かった。大通りから急階段を駆け上がって神社に着くと、二礼二拍一礼し、3つ目のおひねりを賽銭箱に投げ入れた。ここでは誰も待っていなかったという。神社を出ると階段を降り、大通りに出て稲毛の方向に海岸沿いに稲毛浅間神社へ向かった。同社では4つ目のおひねりを賽銭箱に投げると海岸沿いに出発して宿まで戻った。
気遣い
走るペースは小学2〜3年生の小さい子に合わせた。時折「早いか」と聞いて様子を見た。そうすればペースの落ちた子が置いて行かれる事はなかた。昔は道が暗く、今より寒かった。特に検見川と稲毛の境で「ふっきり」と呼ばれる辺りは家が一軒も無く、西風がビュービュー吹き本当に寒かった。ふっきりの辺りでたのグループの子が凍えて動けなくなったという話も2〜3回聞いたことがあるという。
宿に戻って
宿へは夜中の2時半から3時位に戻った。戻ると宿のお母さんが風呂を沸かしておいてくれた。F氏がリーダーの時は、小さい子を先に入れて、入れたら入れたで「早く出ろ」などという感じだった。小さい子は4〜5人、少し大きい子では2〜3人ずつ入った。お釜で火を燃やして、お湯を継ぎ足しながら入った。洗うのではなく温まれば良かった。お風呂に入って解散した。なお、宿にはおでん・ところてんがあり、ところてんがひと一突きで1銭位だった。裸参りに行く前、あるいは終わった後に食べた。F氏は裸参りをきつく・寒く・辛く感じたことは無く楽しく走れたという。帰ってくると充実感に満たされ、裸参りで風邪を引いたという話は聞いたことがなくまた、参加しないと一歩出遅れたかなあという感じだったという。
大人のグループ
徴兵検査が済んだ人達が戦勝祈願や武運長久を願って走ったという。下3丁目・大下宿(現3丁目)のA氏(大正9年生まれ)は昭和14年に5丁目の友人2人と検見川神社に行き、次いで3丁目の尾鷲神社、最後に稲毛浅間神社へお参りして武運長久を願っている。走っている時は裸なので寒く無我夢中だったという。中宿(現2丁目)F氏は昭和40年代初期、中学生の時に参加した。2丁目の三峯神社に集合し、まず検見川神社にお参りに行った。そこでは甘酒を出してくれたという。次いで5丁目の三峯神社にお参りに行った。そこは焚き火が焚いてあった。その後稲毛の浅間神社へお参りに行って戻った。検見川と稲毛の境あたりでは海風が強く、その寒さは忘れられないという。また、打瀬船に乗る漁師は浅間神社にお参りした後、千葉神社にも行くことが多かったという。行ったものは「妙見様までお参りに行った」と言っていた。
最盛期
裸参りは一説には江戸時代の元禄期から行われているといい、F氏は参加するのは漁師の子どもが多かったと感じたという。特に昭和16年から終戦の昭和20年までは戦勝祈願のため盛んに行われた。また、昭和20年3月9日の東京大空襲で被災したF氏の親戚が検見川に移って来たが、同じように検見川の親戚を頼った家が何軒かあり、その子ども達も翌年の裸参りに参加したという。前述のA氏の記憶では、宿では焚火の用意を前もって行い、出かける前に火で暖まり、晒しの腹巻き六尺の褌の姿で走てたという。戦前は鈴をチリンチリンと鳴らしながら、戦後は空き缶をガンガン鳴らしながら走った。小学校では裸参りの参加はダメと言われたが、3丁目は漁師が多かったので、「兄と一緒に行く」などと言って参加したという。走っている時に大声を出すので声がかれ、1月1日小学校の元旦祭という式で「お前裸参りに行ったな」などと言われ、参加したことがすぐに分かったという。
現在
検見川神社の神輿保存会の人達が現在も走って裸参りの伝統を守っている。検見川神社あるいは消防団小屋に集まってスタートしている。(注1)神聖なる神の蔵人(イイ ナンマー)として感動の意、肝魂を入れて(ハイ キモダマ ダー)響残らず仕えまつらせむ(キョウハンハンボー)、天子響(ホラヤーホラヤー)の呼びかけ言葉という。(注2)「懺悔、懺悔、六根清浄」の意という。*(注1)(注2)は、F氏作成の資料に基づく。 千葉市民俗調査会より

